【内緒話は木漏れ日の下で】

 

 

 

四角く切り取られた青空。

流れる雲はゆっくりと、降り注ぐ日差しは柔らかい。

そこにたどり着くためにはいくつもの転移用譜陣を使わなければならなかった。

その道程のあまりの複雑さゆえに、そこを知らないモノが間違って入り込むこともなければ、知っているモノも案内役なしに出入りできるようになるのはそう簡単なことではない。

特務師団官舎―――ヴァンがアッシュとルークに与えた場所。

それはどこか幼き日を過ごした生家に似ていた。

いや、ここはあの場所以上に閉じ込めておくという意味合いが強い。

四方を囲む建物は内側にしか窓がなく、出入り口である譜陣が設置された部屋には常に数人の警備の兵がいた。

もっともこちら側の警備兵は既に懐柔済みで、現在は招かれざる客専用の呼び鈴の役目を担っているのだが、もちろんそのことは客には秘密である。

中庭の中央は訓練にも使えるようにと石畳が敷かれた開けた空間。そこでは現在も数人の兵士が剣を交えている。

ルークはその横を、といっても邪魔にならない程度に十分離れた場所を通って、庭の隅に設置された白いテーブルに向う。銀の盆に載ったティーセットが小さな音を立てるも危なっかしさはない。初めのころを思えば大した進歩である。本来なら自らやるような立場にはないのだが、彼はどんなことでも自分でやりたがった。それがあらゆることを制限されていた前回の反動なのだろうと思うと、咎めることもできず好きにさせていた。それにアッシュにも似たような所があったのでルークに対して強く出られないというのもある。

「お茶にするんじゃなかったのかよ?」

アッシュの手が書類で塞がっていることが気に入らなかったらしい。

その姿が中庭に現れた時から書類を捲る手は止まっていたのだが、ルークは気付いていなかったようである。

感情に影響されたのか少々乱暴に降ろされたティーセットが、ガチャンと不快な音を立てる。

「ルーク」

咎めるつもりはなかった。別に茶器に被害があったわけではないし、本職ではないのだから多少作法が悪くても正す必要はないだろうというのは、ルークに甘すぎるアッシュならではの見解だ。

ただ名前を呼んだだけ。その途端ふわりとほころぶような笑顔が浮かぶ。先程までの不機嫌な様子はどこにもない。

ルークがアッシュに名前を呼ばれることに弱いということを、アッシュは十二分に理解していた。それを利用して口論を中断させたり、彼の機嫌をとったりすることもしばしばだったが、何度やっても彼がそれに慣れることはなかった。今回も呼ばれた瞬間に書類のことなど忘れてしまったのか、今はもう紅茶を淹れる作業に没頭している。

もっともルークの笑顔に弱いアッシュにとって、その方法は諸刃の剣であるのだが、アッシュにとっての幸いはルークがそのことに気付いていないということにある。もしもルークがこの事実に気付き笑顔を武器として使うようになったとしたらと想像し、アッシュは絶対に気付かれてはいけないと改めて決意を固めるのだった。

慣れた手付きで紅茶を淹れるルークを眺めつつ、鼻孔をくすぐる香りに自然と頬が緩む。

いつものメンバーが揃うまでのもうしばらくの間、ルークを独り占めできるはずだった。

アッシュがこの時間が好きだということを理解している大人たちが、集合時間にわざと遅れてくるという気遣いを見せることはいつものことだ。

しかし世の中にはそういった気遣いができないモノもいる。むしろ嫌がらせかと思うほどの頻度で邪魔されるのだから、わかっていて大人たちとは逆の行動に出ているという想像さえ成り立つほどだ。

「いい香りだね」

突然響いた第三者の声にアッシュの機嫌は急降下する。

それは二つ名に恥じない素早さでルークの隣に並び立った。

「お帰り、シンク。いつ帰ってきたんだ?」

「なんだ、戻っていたのか?」

「まあね。はい、ルークにお土産」

第五師団師団長であり参謀総長でもある彼は、数日前から任務でダアトを離れていた。外出の報告は行く前に本人から聞いていたが、帰還の日程は未定だった。

カツンと硬質な音を立ててテーブルに置かれたのは、イチゴジャムの瓶詰め。お徳用サイズ。

「それだけか?ケチだな」

「ちゃんと団員全員に行き渡る分ぐらい用意してあるよ。これはルークに直接渡したかったからさ」

わざわざリボンまで掛けて懐に忍ばせてきたのだ、と。

この場合、団員と言うのは特務師団員を指す。

彼は自分直属の部下より特務師団員を大切にしていた。素顔でいることを許されるこの閉ざされた空間―――ヴァンは許していなかったが、閉ざされているが故に黙っていればそれはなかったことと同じである。もちろんヴァンに密告するような人間はここにはいない―――に、彼が居心地の良さを感じるのも無理からぬ話なのだが、こう度々邪魔されるのであれば出入り禁止にしてやろうかと本気で考えたことは一度や二度ではない。しかしそれを実行した場合、本人はもとよりそれ以外からもたらされるであろう抗議の声が容易に想像できてしまい、実行するには至らないのである。

お茶を入れる手を止めて、今回はどんな土地に行ったのかと瞳を輝かせるルークを認めてしまえば、まあ仕方がないかと諦めるより他はない。

アッシュにとってルークと二人きりという時間は貴重だった。ルークは大勢といることを好む。もちろんアッシュ二人きりという状態を厭うているわけではないが、知った顔を見れば声を掛け、お茶の席に誘うなんてことはよくあることだ。隣でアッシュが睨みを効かせているから下級兵士などは誘われても近づいてこないが―――その際ルークを傷つけない断り方ができた者は出世が早いなんて事実は・・・いやいやアッシュの名誉のためにそんなことはないということにしておこう。きっとあれもこれもそれも偶然にちがいない―――しかしその睨みが効かないモノもいた。

その最たるがこの烈風の二つ名を持つ導師イオンのレプリカ、シンクである。

被験者(オリジナル)イオンは病気持ちではあったがけっしてダアトの奥向きに閉じこもっているような人物ではなかった。その気力は健常人を凌駕していたし、体力が足りない分は権力で補うという、ある意味最強の称号に相応しい人物だった。性格と扱い辛さにおいてシンクはオリジナルに最も近いレプリカではないかとアッシュは思う。第七音素の値が低かったからではなく、その扱い辛さ故に『イオン』に選ばれなかったのだ、と。

それが幸だったか不幸だったかは答える人の数だけ意見が分かれるところだが、かつてと違うことは今の彼がそれを幸と捉えているということ。与えられた名前が『シンク』であったことを彼は幸運と呼ぶ。いや『シンク』を気に入っているというわけではない。『イオン』ではなかったことがよかっただけだ。なにせ『シンク』と名付けたのはアレだ。

そういえば、と自身の名付け親もまたアレであったことを思い出し、アッシュの眉間に皺が一本刻まれた。

「アッシュ?」

顔を見ていたわけでもないのに、その変化に気付いたルークが心配そうに覗き込んでくる。

ルークの意識が自分に向けられたことにアッシュの気分は上昇する。

随分と手軽なものだ。

名前のことにしてもそうだ。ルークが呼ぶのであれば、名付けた人物が皮肉を込めてつけたモノであっても誇りに思えてくるから不思議だ。

「なんでもない」と言って笑ってやれば、ルークは安心したように笑って作業を再開する。

シンクとの会話から意識が離れたと同時に、お茶を入れている最中であったことを思い出したようである。蒸らし過ぎたかな、と不安げにカップの中を覗き込む。

一度目の名前は預言によって定められ、二度目は憎しみを忘れないための戒めとして付けられたものだった。どちらも祝福とは縁の遠い名前。それが特別となったのはいつだっただろうか。

レプリカに対する憎しみから解放されたアッシュは『灰』とは『焔によって生み出されたモノ』と考えるようになっていた。誕生の仕方から考えれば逆のようにも思えるが、アッシュは自分が自分として確立したのはルークという存在の実を知ってからだと感じていた。預言のために生かされていた人形から、自分の意志で生きる人間へ。ならば今の自分を創ったのはルークだ。その時からヴァンが皮肉を込めてつけた『燃えカス』という意味での『灰』はどこにもいなくなった。

「シンクちゃ〜ん。お帰りvv」

怖い物知らずの男が後ろから抱きつくようにしてシンクの仮面に手を掛ける。

特務師団員の一人でハルと呼ばれている。アッシュとルークが信頼する仲間の一人であった。

特務師団員はすべて信頼の置ける部下であるが、その中の何人かは他の部下たちより近しい存在だった。だからアッシュは彼を仲間と呼ぶ。もちろん本人には内緒であるが。

ルークに言わせると特務師団員はすべて仲間になってしまうが、アッシュにとって仲間と部下の間には明確な線引きがある。自分たちの真実、預言とそれにまつわる過去と未来のすべてを打ち明け、そして受け入れた者たち。受け止め方は様々であったが、彼らはアッシュたちのことを頭がおかしいと一蹴することはなかった。もちろんアッシュとて受け入れられるだろうと評価した相手にしか打ち明けてはいないが。

「いっつまでそんな無粋なもん着けてるの? 久しぶりなんだから、顔見せてよ」

そう言いながら仮面を勝手に外して放り投げる。

「ん〜。今日もそっくりだね。眼福眼福」

そのまま覗き込むようにしてシンクの横顔を眺める。

「あんたも大概この顔が好きだよね」

初めこそ反発していたものの、慣れたのか諦めたのか今では好きにさせていた。飽くことなく眺めていたかと思うと、その緑の髪に右手を差し入れかき回す。左手はシンクのウエストを固定したまま揺らぐことはない。

テーブルに阻まれ正面に回りこめない分、背後からやりたい放題である。

一方シンクの方もテーブルに阻まれ逃げるに逃げられない。常時のシンクであればテーブルを蹴倒して逃げるのだろうが、今はそういうわけにはいかなかった。そこには現在ルークが淹れている最中の紅茶が鎮座しているのだ。

「ハル、あまりシンクで遊ぶなよ」

苦笑交じりにルークが咎めると、「ははは」とやはり苦笑交じりの弁明が返ってくる。

「いや〜。シンクちゃんってば意外と抱き心地いいだよねぇ〜」

男の子なのに不思議だよね、と。

不思議なのは心地いいと感じるおまえのほうだろう、と残念ながらツッコミ役は不在なためハルの行動が制止されることはない。

髪を掻き混ぜていた右手を下ろすと、スルリと腰を撫で上げる。

「ハロルド・キャスロウ。僕はそこまで許した覚えはない」

取りようによっては、横顔を凝視することと頭を撫でることは許可していると取れなくもないが、相変わらずツッコミ役は不在だ。

かつては長かった銀の髪と一緒に捨てた本名を呼ばれハルは眉をしかめるが、しかしそれも一瞬ですぐにいつもの笑顔に変わる

「ひど〜い。シンクちゃん。俺が殺されてもいいわけ?」

「つうか本当に本名が知られたら殺されるのか?」

心配半分、好奇心半分で尋ねるのはルークだ。

その疑問に答えたのは女性の声であった。

「預言(スコア)に死を詠まれて尚生きている人間を処理するのも監視者の仕事。預言士(スコアラー)ハロルド・キャスロウが生きていると知れば命は下されるでしょうね」

過去その任についたこともある女性は「当然です」と言い放つ。

彼女は神託の盾(オラクル)騎士団の中でヴァンとディストに次いで付き合いの長い人物だった。アッシュたちは彼女のことをリズと愛称で呼ぶ。本名で呼ぶ人間はわずかだ。それは彼女の過去の任務が極秘であったため、それを行っていたころの名前は極秘とまではいかないものの、知る者が少ないからだった。

仕事中はきっちりと結い上げられている淡い金の髪が、今は背中を覆っている。その金色に懐かしさを覚えるのはいつものこと。

両手で持った銀のトレーには、焼きたてのマフィンがお茶会の参加人数分より随分多く盛られていた。シンクの帰還を知っていたわけではなければ、作りすぎたわけでもない。これが通常である。腹八分目という言葉を知らないお子様のための配慮だ。ちなみに保護者は「夕飯が食えなくなるだろ」と苦言を呈すが、最終的にはその幸せそうな顔に沈黙せざるをえなくなるのが常だった。

「リズちゃんってば怖〜い。でもどうせなら美人さんがいいから、リズなら大歓迎かな?そんな命令が下ったら俺を殺す?」

「まだ人形であると思わせておく必要があると言うのなら、エリザベスとしては受けざるをえないわ。精々そうならないように気をつけなさい」

どちらもそのような事態に陥れば相手の命を優先することはわかっているので、この言葉遊びを受けてオロオロするのはルークだけだ。

『エリザベス』は人形の名前。しかし、その愛称である『リズ』は人間の名前。

エリザベスであればそれがどのような任務であっても完璧に遂行しただろうが、リズなら殺したことにして生かす手段を考えるだろう。

預言に従った暗殺任務を実行するだけだった過去。その仕事に善悪や好き嫌いといった感情を持ち込むことなく淡々と任務をこなす彼女を、ヴァンは『殺戮人形(マーダー・マリオネット)』と呼んだ。

預言に詠まれたのであれば殺人行為さえも正当であると、そういう生き方に疑問をもたない監視者がダアトやユリアシティには何人もいる。そういう人間たちによって作られた、ただ命令に従うだけの人形。その中で最も任務達成率が高かった彼女をヴァンは寵愛していた。しかしそれは彼女がヴァンにとって都合のいい道具であったから。かつてのルークがそうであったように、ヴァンが彼女を人間としてみることはない。もっともヴァンが人間としてみているモノなど妹ぐらいしか思い当たりはしないが。

ヴァンはダアトに連れて来たエリザベスに特務師団員という役職を与えた。名称などどうでもよかったのだろう。職務も表に出ることのない暗殺任務のみであったから、彼女がしていることを知る人間は上層部のそれも限られた者のみだった。しかし何の肩書きもない人間をダアト内に置くわけにもいかず、名称のみで実体のなかった師団を利用したのか、それともそのために新しい師団を作りあげたのか。たった一人の特務師団。そして存在を隠すように与えられた居場所―――それがこの箱庭だった。

師団とは名ばかりの場所にアッシュとルークが放り込まれた当時、彼女は感情を持たない人形だった。神託の盾(オラクル)という十歳の子供がいるのは相応しくない場所で、二人を隠しておく場所としてこの閉ざされた箱庭を選んだのはヴァンだ。そしてヴァンが初めて彼女に与えた人殺し以外の命令が子守だった。

人形に育てられた子供が二人。ヴァンは二人が余計な知識を得ることを恐れていたのだろう。

結果だけを言えば、ヴァンの意に反し余計な知識を得たのは人形の方だった。二人と接しているうちに人形は心を持った。人形が人間になれるということを知らなかったのはヴァンの誤算だ。

しかしヴァンは未だ自分の人形であると思っているはずだ。今はまだ真実を知らせる時期ではない。人形のふりを続けるのであれば、リズはエリザベスとして任務を受けなければならない状態にある。もちろん完遂したふりをするのは得意であったが、面倒であることには代わりはない。

もっとも命を狙われる立場にある男も、死を詠まれているにもかかわらず未だ生き続けているという実績の持ち主である。面倒な状態にならないよう上手く立ち回るだろうことは容易に想像がついた。

だからこの場で本気で心配しているのはルークだけだった。

短慮のように見えても、シンクの本名暴露発言は時と場所ぐらいは考慮されている。仮面を勝手に外されたり頭を撫でられたりしても、罵倒するだけに止める程度にはハルのことを気に入っているのだ。

オロオロするルークを見るのも嫌いではないので、アッシュがそのことをルークに説明することはない。

アッシュは感情をそのまま顔に表すルークが好きだった。万華鏡のように変化する表情は見ていて飽きることはない。

なので、その変化をもたらしているモノが自分でないことに多少の不満があったが、書類は放置、会話は素通りで、ルークを眺めるだけだった。そんなアッシュを正気に戻したのは、どこからともなく飛んできた銀のトレー(ちなみに防御力8の代物だ)だ。

「危ねぇじゃねぇか」

「武器じゃなかっただけありがたいと思え」

お茶会参加が許されている、もしくは阻止不可能な最後の一人は左腕に紙の束を抱えていた。トレーは右手で投げたのだな、とどうでもいい感想が浮かぶ。トレーが飛んでこようが、金ダライが落ちてこようが、ここにいる者たちが動じることはない。受け止めたトレーをどうしようかとアッシュだけが思案顔である。

珍しく教団服を着込んだ黒髪の男は名前をロイス・セイレンと言う。

ちなみに普段は白衣か作業着である。前者は研究時、後者は制作時の服装ということらしい。

日用品がある日突然武器や防具になっているのはこの男が改造しているからだった。

「奇襲を受けた際に役立つだろう」と言っていたが、慣れた者でも気を抜けばたどり付けないような場所に誰が奇襲を掛けるというのだろうか?

面白がってアレコレ試したがるルーク、悪乗りしたハル、昔とった杵柄なのか「日用品が武器だと任務が楽になるかしら」と淡々と試し斬りを引き受けるリズ。ルークが望んでいる以上アッシュが制止役になることはない。師団長が止めずして誰が止めるというのだろう。こうして特務師団官舎には密かにけったいな物が増殖していくことになる。

それはともかく現在のロイスの服装は教団服である。ちなみに教団服は外出着扱いだ。

つまりはロイスもまた戻ってきたばかりということになる。

ちなみに外出先は教団内であったが、特務師団員にとっては官舎から出ることが既に外出である。

書類を受け取ってくるだけの簡単な任務。任務内容自体は簡単なのだが人選を間違えた場合、迷子になって帰って来られないという結果になるので人選は大切だ。

自室に引き篭もって研究か制作に明け暮れている男に使いを命じたのはアッシュだった。たまには動けという親切心なのか、引き篭もりなのに方向音痴ではないという不思議な特技を買ってのことなのか。ともかく人選に間違いはなかったようである。

「あったのか?」

抱えた紙の束の中から選ばれた一枚を一瞥したアッシュはニヤリと口角を上げる。悪巧みをしている時の顔だ。

その内容に興味津々なルークが身を乗り出してくる。

カタンとテーブルが揺れた。紅茶が波打つ。

書類が気になっていつも以上に落ち着きがないルークに早く教えてやりたいという思いもあったが、彼が淹れた紅茶を無駄にするのも忍びなかった。

だから、紅茶が冷める前にお茶にすることを提案する。

作戦会議は木漏れ日の下。美味しいお茶とお菓子をお供に

 

 

 




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