【空が見たければ屋根をぶっ飛ばせ】
四方を壁に囲まれた薄暗い部屋。天井付近にある明かり取り用の窓から差し込む光から、今が夜ではないことはわかるが、それだけだった。入り口は重たそうな鉄の扉。施錠されていることは確かめるまでもない。
アッシュは自分とルークが簡素なベッドに寝かされていたことを知る。
いつのまに、という思いはある。
寝ている間にコーラル城から運ばれたのだということに、アッシュは忌々しげに舌打ちをした。
意識のない間に自分たちの身体を運ぶことなど許した覚えはない。
あの時それをヴァンに許したのは、ルークの誕生にそれが必要だったからだ。
寝ている間というよりは、眠らされていたのだろう。
そういえばヤツには譜歌があったな、と思い出す。
「ルーク」
呼びかけても起きる気配はない。
何か異常があるのかと不安になったが、寝息は穏やかでその心配は杞憂であるようだった。安心はできないが、今すぐどうこうということもないだろう。
名残惜しかったが、抱きしめていた腕をほどく。
未だ夢の中にいる半身。その温もりもまた眠りを誘う要因であったようだ。
たとえ譜歌の影響下にあったとしても、ルークから引き離されたのであればアッシュには気付ける自信があった。
そしてそれはルークにしても同じことだった。
先に覚醒したアッシュがあたりを確かめるべくベッドを抜け出すと同時に、朱色の睫毛に縁取られた翡翠が姿を現す。
たまたま顔を向けている方向が悪かったのだ。アッシュの姿がないと思った瞬間に翡翠は涙に濡れる。
その気配にルークに背を向け壁の厚さを確認していたとしてとも、アッシュが気付かぬはずはない。
「ここにいる」
あわてて掛け戻るとその頬に触れた。
回線を繋いでいなくとも正確に伝わる思い。
自惚れなどではなく、それはアッシュも同じ思いであったから。
もっとも自分は泣いたりしないけどな、とはアッシュの虚勢でしかない。
涙を流さないだけで泣いていないというわけではないからだ。
「アッシュだ〜」
えぐえぐと、泣き止むどころか涙は溢れる一方で。
それでもその顔が悲しそうではなかったので、アッシュはルークが落ち着くまで涙を拭い続ける。擦りすぎたせいか目の下がほんのりと赤く染まる。それが痛々しくて、思わず舌を這わせた。
「ふぇ」
大きく見開かれた翡翠。零れ落ちるのではないかと、心配になる。
「アッシュ?」
驚いた拍子に涙は止まったようだ。
アッシュは自分が何をしたのか思い当たり、慌ててルークから離れようとしたが、そんなことをルークが許すはずがなく。
「いっ」
指先にアッシュの髪が絡んでいた。
「ゴメン」
痛みに僅かに寄った眉間に、ルークがすまなそうに呟く。
それから名残惜しそうに手を離す。
その顔があまりに寂しそうだったから。
「仕方ないからな」
そう言ったのはポーズだ。
現状把握よりも何よりも、今はルークを安心させることが重要であると、そして自分から離れておきながら、アッシュもまた離れがたく思ってしまったから。
「こうしていてやる」
朱色の頭を抱きこんで、再び夢路へと足を踏み出す。
夢の中であってもきっと繋いだ手が離されることはないから。
ドアが細く開けられていた。
こちらを窺う気配に、アッシュはわざと物音を立てた。
「気がついた?」
女だ。名前は確か・・・。
「わたしはコティ。貴方たちのお世話をするようにと言われて、第一自治区からきたの」
アッシュは緩慢な動作で身体を起こす。今はまだ本調子ではないと思わせておいたほうがいい。ルークには回線で寝ているふりをするようにと言い聞かせた。
それでも好奇心旺盛な子供はそっとシーツの影から瞳を覗かせていたが、コティと名乗った少女には気付かれていないようなので大目に見る。
「気分はどう? 何か欲しいものはあるかしら?」
アッシュの肩を支え起き上がるのを手伝いながら、コティは気遣うように尋ねる。
「ヴァンはどうしている」
「ヴァン様なら、今朝からずっと本部の方へ行ってらっしゃるわ」
なるほど、ここはダアトということか。
まぁ予想はついていたことだ。
ルークが己の傍にいること以外、自分はかつてと同じ道を歩んでいるようだった。
もっともその差異こそが唯一アッシュが望んだものである。
「喉は渇いていない?」
甘い水、か。
それもまたヴァンの指示なのだろう。
「貰おう」
コティが透明な液体を満たしたカップを差し出すが、アッシュはそれを受け取ろうとはしない。
「それを用意したのは誰だ? 誰に言われて持ってきた?」
「何を心配しているのかは知らないけれど、この水はヴァン様が用意されたものよ」
「そうか。処分してくれ」
怪訝そうな顔をする少女に、アッシュは安心させるように言う。
「ヴァンは今朝から本部に詰めているのだろう」
朝から汲み置きされた水は飲みたくないのだ、と少女を誘導することは容易かった。本当の理由を教えるわけにはいかないし、言ったところで信じはしないだろう。
「わかったわ。汲みなおしてくるから、少し待っていて」
少女が部屋を去ると、待っていましたとばかりにルークが顔を出す。
「アッシュ?」
「あいつが用意したものは飲まない方がいい」
たぶんあの水は甘い。
監視者が少女一人であれば抜け出される可能性がある。しかし二人の存在を公にしたくないヴァンは大仰な見張りをつけることはできないだろう。眠らせておくというのは、いかにもヴァンの選びそうな方法だった。
「お待たせ」
これならいいかしら、と新たにコティが用意した水は冷たくて美味しかった。甘いと感じることもない。
アッシュが水を飲んだことで安心したのだろう。
「ヴァン様は夕方にはここに寄られるそうよ」
そう言い残して彼女は部屋を出て行く。
それでも扉の向こうの気配がなくなることはなかった。
再び二人きりになった後、しばらくの間これからのことを決めたり、取り留めのない会話を楽しんだりしていたのだが、いつの間にか眠ってしまったようである。
薄暗い部屋の中に人影を見つける。
あの少女ではない。
「ヴァン」
他に思い当たる人物はいなかった。気配に気付かず進入を許してしまったことは不覚である。
「お目覚めですか? お坊ちゃま」
そんなふうに呼んだことなどないくせに、揶揄するような口調が余計不快だった。
そしてその声がルークの覚醒を促したこともまた、アッシュの機嫌を悪くする要因の一つだ。
怯えるようにアッシュにしがみ付くルークを、ヴァンの目から隠すためにシーツを引き上げる。これでシーツと長い髪がベールとなってヴァンからはルークの表情を見ることはできないだろう。
ルークがヴァンを知っているということを知られることはもちろん、自我があることを悟られるわけにはいかないのだ。
「どういうことだ、これは。俺はまだここに来ることを承知したわけではなかったはずだ」
協力するかどうかはヴァンの真意がわかってからだ、とアッシュは言い、ヴァンもそれを承知したはずである。
「いつまでもあんな所にいるわけにはいかないだろう。それにダアトへの亡命を望んだのはおまえではないか」
覚えていないのか、とヴァンが大げさな表情でアッシュの顔を覗きこむ。
いいや覚えている。
しかしアッシュの真の望みが亡命ではなかったということをヴァンは知らない。
望んだのはルークを取り戻すことだ。そのためにヴァンの甘言に乗っただけであり、取り戻した以上言いなりになる理由はなかった。
睨みつけるアッシュにヴァンは何を思ったのだろうか?
「私を恨むな」
自分に従っていればいずれキムラスカに戻してやる、と
勘違いにも程がある。
アッシュがヴァンを睨む理由は故郷が恋しいからではない。
「ルーク、いやもうその名は相応しくないな」
これからヴァンが言うであろう台詞はわかっていた。
燃えかすアッシュ、とヴァンはおかしそうに笑う。
その言葉にアッシュよりもルークの方が激しく反応した。
シーツの下、アッシュの腰にしがみ付いていたルークの肩が怒りに震える。
今にもヴァンに向かって行きそうなのを、回線を繋いで慌ててなだめる。
自分は大丈夫だ、と。
アッシュがそこに見つけた意味をルークは知らなかったから、アッシュを貶されたと思ったのだろう。自分のために怒るルークが愛おしかった。
「ここに置いておくのであれば、それにも名前をつけなければならないな」
ヴァンの目がシーツから覗く朱色の髪に向けられる。
見られるだけで穢れるとでもいうように、アッシュはヴァンの目からルークを隠すように抱き込む。
「必要ない。こいつはルークだ」
「堕ちたるモノ、ルシフというのはどうだ?」
あいかわらずヴァンのネーミングセンスには呆れるものがある。
名前に皮肉を込めるのは、そう名付けることで自分たちを貶めたいからか、それとも世界やこうなった原因である預言を憎ませたいからか。
世界などどうなってもよかったが、ルークが守りたいと望んでいる限り守ると誓ったものだ。
預言に対しては覆すことが可能であるとわかっている以上、恐れる必要もありがたがる必要も感じなかった。しかしそれが己にルークを与えてくれたというのであれば、感謝するものもいい。
それはヴァンやディスト、フォミクリーの発案者に対しても同様だった。
ルークを返してくれたすべてに感謝を、しかしこの幸福を脅かすというのであれば、恩を仇で返すことに躊躇いはない。
「まぁ、とりあえずはゆっくり休め」
ヴァンは立ち上がり、そして付け加えた。
「ここから出ようとは考えるなよ。ダアトはそれほど甘くはない」
その言葉、そのままおまえに返そう。
―――俺たちはそれほど甘くはない。
二人が同時に唱えた言葉をヴァンが知る術はなかった。
コティという少女が再び姿を見せたのは翌日のことだった。
帰郷の挨拶に来たのだと言う。
死の預言が詠まれたからと、その死を素直に受け入れる彼女の態度に吐き気がした。預言の真実を知ってみればこれほど気持ち悪いものはない。
隣ではルークが悲しみとも怒りともつかない瞳で少女を見つめていた。
預言に詠まれなかった存在であり、預言に抗い世界を存続させた立役者であり、何度も死を宣告されながらも最後まで生きることを諦めなかったルーク。彼は預言だからと己の死を簡単に受け入れてしまった少女の姿に何を思うのか。
しかし預言は絶対ではないのだと、今の彼女に言ったところで信じはしないだろう。
「ベルケンドにいい医者がいる。一度尋ねてみるといい」
かつては言わなかった台詞。
これで彼女の預言が覆されるのかどうかはわからない。
あるいは懸命な治療の結果がその預言に繋がるのかもしれない。
それでも、これが今できる精一杯だった。
「ありがとう」
彼女はベルケンドに行くだろうか?
その儚げな笑みからは想像することはできなかった。
「ねえ・・・。もう会うこともないと思うけど、名前ぐらい教えてくれる?」
「失礼した」
アッシュはベッドから降り立つと、シーツを捲りルークの顔を彼女の瞳に曝す。
少女は一瞬だけ驚いたように目を瞠った。
「双子だったのね。そっくりだわ」
「そんなようなものだ。俺はアッシュ。こいつはルークだ」
「そう・・・。さよなら、アッシュ、ルーク。元気で」
「あぁ、また会おう」
少女は少しだけ寂しそうに笑った。
「会えたら、いいわね」
コティが出て行くとルークがむくっと起き上がる。
「双子だって」
クスリと笑う。
フォミクリーという技術の存在を知らなければ、そう思うのが普通だろう。
「双子がよかったか?」
そう尋ねたら、わからないという答えが返ってきた。
「アッシュのレプリカだってことは俺の誇りだけど、双子として生まれてれば十年間もアッシュを一人ぼっちにしなくて済んだんだろ」
それもよかったなぁ〜とルークが呟く。
生まれた時から一緒という想像は確かに惹かれるものがある。
しかしそれはどんなに望もうとも手に入れることのできない夢だ。
空想している間は楽しいが、夢が幸せであればあるほど現実に戻った時の虚しさは大きい。
「あぁ〜。空が見たいな」
何かを振り切るようにルークが呟く。
「見せてやろうか?」
見果てぬ夢に濡れた瞳を乾かすにはこれぐらいの荒療治がちょうどいい。
どうやってと首を傾げるルークに、言葉は必要ないだろう。すぐに目撃することになるのだから。
天井に向けた手に力を集めた。
この力を自分の意志で使うのは初めてだった。
爆発音に似た騒音が辺りに響く。
この音を聞きつけたヴァンは慌てて駆けつけてくるだろう。
理由を聞かれたら「空を見せたかったのだ」とそう答えようか?
もちろん嘘ではないが、ヴァンに対する嫌がらせの意味がないわけではなかった。
逃げようと思えばいつでも逃げられるのだと。
もっともそんなことを今は教える必要はないから、力が暴走したことにするつもりだったが、ついでに次に暴走した時のために海の見える方向を訊いておくのもいいだろう。
もちろんいつ暴走するのかを決めるのはアッシュであり、望むのはルークだ。
崩れた天井から見た空はどこまでも青く澄み渡っている。
いつもと同じ空が、いつもより美しいと感じるのは共に見上げる瞳があるから。
「世界はこんなにも綺麗だったんだな」
聞かれていないと思って呟いた声に、ルークが頷く。
もっと美しいものを見せたいと、見たいと思う。
アッシュは際限なく溢れてくる欲望に自嘲気味に笑った。
ルークを取り戻せればそれで己の望みは費えると思っていた。
なんと愚かなことだろう。
ルークといることで夢は膨らむ一方だったのだ。
アッシュが超振動を暴発させたことにより、かつてとは違う道が開かれることになる。
壁や天井を吹き飛ばされても脱出不可能な孤島。転移用譜陣以外に出入り口のない教団施設。空を飛ぶ手段のない人間には脱出不可能な要塞に二人を閉じ込めることにしたヴァンだったが、そこで二人はかけがえのない仲間との出会うことになることなど、ヴァンはもちろん誰も知る由がなかった。
あとがき
ファ○通の文庫を読んでいないとわからないネタでした。未読の方申し訳ありません。
ヴァンがルークにつけた名前。イスパニア語の意味は当然捏造です。
ルシファ=堕天使=堕ちたるモノ=聖性を失ったモノ=聖なる焔の光ではない光
といった感じの連想ゲームでした。
後日あまりにもそのままで捻りがないので、ルシファ→ルシフに変更。やっぱり捻れない(爆)
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