【眠れない夜には星を数えて】

 

 

 

ガイの乱入もあり、無事イオンを取り戻した一行はセントビナーに向かうことになった。そこでアニスと合流することになっているらしい。

歩き初めて半日。

ちょうど日が暮れ始めた頃だった。

「出てきたらどうですか?」

ガサリと草叢が鳴る。

ジェイド、ガイ、ティアの三人が一斉に武器を構える中、ルークだけ反応が遅れる。

それは戦いに慣れていないということと、それ以上に人間に件を向けるということに恐怖心があるから。

全員が見つめる中、草叢が割れた。

それは神託の盾(オラクル)の師団服を着崩した銀髪の男。チーグルの森で会った人物だった。

「気付いていたか。封印術(アンチフォンスロット)では感覚までは封じきれねぇってことか?」

四人分の得物を向けられ、その男は軽く両手を上げた。剣はその足元の地面を鞘としている。敵意はないという意志表示なのだろう。

「おいおい。守ってやったっつうのに、そういう歓迎の仕方はねぇんじゃねぇの?」

彼が登場した場所を覗き込むと、折り重なるようにして神託の盾(オラクル)兵が五人倒れていた。

「殺したのか?」

人の死に慣れないルークが震える声で尋ねる。

その切っ先は既に下げられていた。

ルークにはそれを人間に向けるというだけで神経を磨り減らす行為だ。

いつもと同じ剣が実際より重く感じるのはそこに命の重さが加わるから。それは稽古では感じることができない現実(リアル)。教えなかったのか、それとも教えられるようなモノではなかったのか。

「生きてるぜ。一応、ご同僚なんでね」

相手が神託の盾兵でなかったとしたら殺していたのだろうか?

殺すことが当然だと、この男も言うのだろうか?

この状況下でさえ男は笑顔だ。

思い返してみるとその男はいつも笑っていた。馬鹿にしたようなモノであったり、優しさが溢れたモノであったり、そこにある感情は様々であったが、『笑い顔』以外を見せない男。それはこちらに付け入る隙を与えないための鎧。

兵士と言うよりも策士といったところでしょうか、とはジェイドのみが抱いた感想だった。

「助けて、くれたのか?」

「勘違いするなよ。俺が守ったのはイオン様。他はついでだ。つ・い・で。たっく、命令だからって、方法ぐらい選べってんだよなぁ〜」

後半は後ろの五人に向けた言葉のようであるがもはや聞こえてはいないだろう。もっとも言った方も聞かせたかったわけではないようだったが。

三人分の得物に臆することなく自身の剣を鞘に納めた男は、一人一人の顔を確認するかのように視線を巡らし、ガイの前で一瞬首を傾げた後、再びイオンに視線を向ける。

「ところで、導師守護役(フォンマスターガーディアン)の姿が見えないようですが、イオン様。彼女はどこに?」

「親書を取り戻そうとして、船窓から吹き飛ばされて・・・ただ、彼女のことですから無事でいてくれるとは思うのですが」

イオンの言葉に、男の顔から笑みが消える。

「馬鹿ですかあの娘は? 導師守護役が守るべきものは、親書ではなく導師だということもわからないとは、守護役を何だと思っているのか」

「僕がお願いしたのです」

「そうですか。ではイオン様、今後は守護役に職務以外の仕事を命じるのはお止めください。守護役は何かの片手間に務まるような職務ではありませんから」

例えそれがイオンの命令だったと聞かされても納得はしないようである。

導師に対して失礼だわ、とティアが眦を吊り上げる。

自分がイオンの言葉を否定することはよくても、他は許さないらしい。それとも彼女の中で大詠師モースは導師イオンを上回る存在なのか。本人は中立であると主張していたが、彼女の行動は中立とは言い難いものがある。指摘したところでヒステリックに否定するだろうことはわかっていたから、しないけれど。

「それがどうした? 後で咎めを受けることになったとしても、俺は導師をお守りすることが正しいと信じているんでね」

報告するのなら好きにしたらいいと、ティアには一瞥もくれずに言い放つ。彼の視線は常にイオンだけに向けられていた。周囲の人間は彼にとって存在しないも同じなのではないかとさえ思えてくる。

「それから、ご自身を軽く見るのも大概にしてください。親書は代えがききますが、導師の代えはないのですよ。ふつう

イオンが驚いたように目を見張る。最後の言葉はイオンにのみ聞こえるように告げられたようだった。その言葉の何がイオンにそんな表情をさせたのかはわからなかったが、彼は神妙な顔付きで「わかりました」と頷いただけだった。

「イオン様。お願いがあるのですが、俺を臨時の守護導師役に任命してはいただけませんか?」

「貴方の目的は僕をダアトに連れ戻すことではないのですか?」

「確かにそういう命令を受けてはいますが、イオン様のご意向を無視してまで強行しようとは思っていませんので」

イオンが自分の意志でダアトに戻ると言うまで待つつもりがある、と。

同じ神託の盾兵で、同じ命令を受けていても、やり方まで同じということはないらしい。

「得体の知れない人物を導師に近づけるわけにはいかないのですけどねぇ」

ジェイドが中指で眼鏡を押し上げながら言う。台詞は男の同行を拒否しているが、そこに絶対的な拒絶はない。ジェイドの頭の中でどのような計算が行われているのかはわからないが、彼が反対していない以上男は希望通り導師守護役に就くだろう。

このパティーの実質的なリーダーはジェイドだ。

誰もが一見自分の意志で行動しているように見えて、その実ジェイドの望む方向へと進んでいく。

和平の要となる導師や協力を依頼したファブレ公爵家の子息に対して一介の軍人が取る態度とは言えないが、彼にとっての幸いは、掌の上に乗る二人の要人はそのことに気付けるほど世慣れていないということと、その二人を除けばそれを忠告できるほどの地位にある者が周りにいないということ。もっとも現在のメンバーにそのことに気付けている人間がどれほどいることか。

「得体なら知れています。彼は六神将の部下。タルタロスを襲った人間に導師の守護など任せられません。導師のことは私がお守りします」

「あんたが導師守護役の代わりをするって? ファブレ家のお坊ちゃんはどうするつもりだ。使用人が迎えに来たから自分はお役御免だとでも言うのか? あんたの責任ってぇのは随分と軽いもんなんだな」

必ずと言ったのは嘘だったのか、と。

「嘘じゃないわ」

「二人とも、なんて安請け合いできるような実力者にゃあ見えねぇけどな」

ティアが真っ赤になって反論するが、その声はジェイドの声によって遮られた。

「それよりも、私はどうして貴方がそんなことまでご存知だということの方が気になるのですけどねぇ」

「んなの、盗み聞きしたからに決まってるっしょ。三人まとめて牢に入れる理由なんて、色々お話してもらって情報収集する以外に何があるってぇのよ?」

ジェイドがなるほど、と手を打つ。今初めて気付いたのか、わかっていての演技なのか。

タルタロスで閉じ込められていた時の会話はすべて、多分ここで休憩してからの話も聞かれていたと考えるべきだろう。

「こちらの事情は承知しているということですか」

「導師守護役は不在。戦闘要員三人に対して護衛対象が二人。この状況でイオン様のとこはお任せくださいとか言われてもなぁ〜。俺も『はいそうですか』と引き下がるわけにはいかないんでね」

男の言う護衛対象とはルークとイオンのことだろう。

ルークは剣を持つ者だ。

人を殺すのは怖いし、正直殺したくないとも思う。

しかしその議論はタルタロスの檻の中で充分過ぎるほどにやった。

未だ魔物以外を斬ったことはなかったが、生きるために人間であっても斬ると決意したばかりのルークにとって、男の言葉は救いであると同時に侮辱でもあった。そしてルークの矜持は救いを求めることを拒む。

「俺は戦える」

「無理はしない方がいい。怖いのだろ」

ルークに対してはおそらく初めて向けられたであろう真面目な顔。真っ直ぐに見つめてくる青灰色の瞳には先程までとは違う光がある。その意味が知りたいと思った。しかし男が続きを言う前にジェイドが口を挟む。

「安心してください。バチカルに着くまでちゃんと護衛してあげますよ。私としても、死なれては困りますからね」

ジェイドの言葉にその顔を見れば、うっすらと笑みが浮かんでいた。

頭の芯がカッと熱くなる。

「ば、馬鹿にすんな!」

「馬鹿になんてしていませんよ」

安全な街の中で暮らし出掛ける時は傭兵を雇うのは普通のことなのだから、それを恥じる必要はないとジェイドは言う。

確かにそうなのだろう。バチカルの屋敷でも警備の兵を雇っている。今までそれに疑問を持つことなどなかったのに、何故頷くことができないのだろう。

馬鹿にしたわけではないと、男も言う。しかし同じ言葉のはずなのにジェイドの時ほど頭にくることはなかった。むしろ頭に昇った血が下がるような気さえする。

それは浮かべている表情の違いが原因なのだろう。反発するよりもその意味を知りたいと、ルークは思う。

戦えない人間には価値がないと、二人の軍人は言った。足手まといとはそういう意味なのだろう。

しかし男は「戦えなくてもいいのだ」という。

男の口からルークを否定する言葉は出ない。

それはヴァンを除けばおそらく初めてではないだろうか?

屋敷の、『昔のルーク』を知る人間は、こぞって『今のルーク』を否定した。

そして初対面で昔のルークを知らない二人も、戦えないルークを否定する。

だからルークは今の自分を肯定されることに不慣れだった。驚きと喜びと疑いと様々な感情が渦巻き、彼が敵だと言うことを忘れさせる。

いや、敵だと認識しているのはティアだけだった。

イオンは最初から疑ってはいないようである。

ジェイドも少なくともイオンの意志を尊重するという点に関しては疑ってはいないのだろう。ルークが戦えないのであれば、護衛がジェイドとティアとガイの三人だけというのは心許ない。ならば男にイオンを任せるのも一つの手であると考えているようだった。男の実力はチーグルの森で経験済みである。戦力になるということに疑う余地はない。

「自分で気付いたんだ、馬鹿になんざぁできねぇよ」

ルークが何に気付いているというのだろうか?

ジェイドの言葉に頷けなかった理由をこの男は知っているとでも言うのだろうか?

漠然たるモノ。しかし確かにここにある何か。それにつける名前。そこにある意味。

「ったく、謡将は何も教えなかったのか? 剣術指南とはただ技だけを伝えることではない。心構えを教えねぇなんざ師とは呼べねぇだろうが」

「師匠を悪く言うな」

しかし教えて欲しいという思いは、ヴァンのことを持ち出された瞬間に霧散した。

「聞きしに勝る、か」

「何がだよ」

「別に謡将の指導方針が間違ってると言ったつもりはねぇよ。教えねぇまま実戦に送り出したってんなら否定もするけどな。今回のことは謡将にとっては想定外のことだ。お坊ちゃんは純然たる被害者だろ。まぁ謡将の方には非がないってわけじゃあねぇみたいだけどな」

「師匠は悪くねぇだろ。この女が・・・」

「このお嬢さんが殺人衝動を抑えられない無差別殺人犯ってんならそうだろうけどよ。違うんだろ。なら謡将の方にも命を狙われるだけの理由があるっつうことだ」

「どんな理由だよ」

その言葉に全員の視線を集めたティアはゆっくりと頭を振る。先程までの激昂が嘘のように凪いだ表情からは感情を読み取ることはできない。

「わたしの故郷に関わることよ。貴方たちに話すことではないわ」

またか、とルークは嘆息した。

「故郷のことねぇ〜。だったら何でファブレ家の坊ちゃんを巻き込んだ? ったく、兄妹喧嘩なら家でやれってんだよなぁ」

「彼を巻き込むつもりなんてなかったわ。あれは事故よ」

「キムラスカのファブレ公爵家に忍び込んだことも事故だと言うつもりか? ティア・グランツ響長」

男の鋭い叱責が飛ぶ。

ティアはヒッと喉を引きつらせて続く言葉を飲み込んだ。

「な〜んてな。教団内の粛清は今の俺の任務じゃぁないんでね。求められりゃぁ証言はするけど、まぁそれもねぇか。ヴァン・グランツ謡将の実妹じゃあなぁ」

「どういう意味よ?」

「やだねぇ、自分がどれだけ兄の庇護下にいるかわかってねぇやつは」

「こいつのこと知っているのか?」

「初対面だが噂ぐらいは聞いている。まぁこの様子じゃあ噂はホントだったみてぇだけどな」

それがどんな噂であるか興味があったが、男が語ることはなかった。ただイオンだけが気まずげにティアから視線を逸らす。

「大詠師に命じられた極秘任務とやらの最中にも関わらず兄妹喧嘩を優先させての任務放棄。神託の盾の品位を落とす数々の犯罪行為。一般兵ならとっくに軍事裁判ものだろうよ。まぁそれを決めるのもてめぇの兄貴なら、裁くのもてめぇの兄貴だ。大した処罰は下らねぇだろうけどな」

「ダアトでは妹の罪を兄に裁かせるのですか、随分甘い軍規ですねぇ」

「んなこたぁねぇよ。刑を決めるのは他のヤツに決まってるだろうが。だがな、あいつらだって人間だ。主席総長の妹を重罪って訳にはいかねぇだろうよ。良くて降格。悪けりゃ咎めなし、ってなぁ。あぁこの場合良し悪しは逆になるのか」

「軍事裁判だなんてそんな・・・。確かに任務中に私事を優先したことはいけなかったと思うわ。でもわたしは犯罪行為なんて」

していない、そう続けるつもりだった言葉は最後まで言うことは叶わなかった。

ティアに冷たい視線を向けているのは男だけではない。ガイが苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、ティアの意識は男にのみ囚われてそれには気付いていないようだった。

「本気でそう思っているのか? 謡将の命を狙ったことだけでも教団に対する立派な反逆だぜ。まぁ百歩譲ってそれは兄妹喧嘩で済むかもしれねぇ。だがな、不法侵入はそれだけで犯罪だってことだ。それともあんたにとっては、入り口以外の場所から家主の許可も取らずに訪問することが普通だとでもいうつもりかよ?」

「それっていけないことなのか?」

ルークが不思議そうに問う。

そんなことも知らないのかとミュウを除く全員が目を剥く。

他はいい、他はいいがティアにだけはその非常識を非難されたくはない。それとも自分の場合は許される、とでも思っているのか? いや、思っていそうだ。

緊急事態だから、大事の前なら些細な―――不法侵入を些細と表していいかは甚だ疑問ではあるが―――犯罪は許される、と。そういうつもりであるならそれでもいい。せめてその大事を明らかにしてから自分の正当性を主張すべきだ。

「ルーク・・・」

代表してガイが何か言いかけたが、その前に何故皆が驚いているのかがわからないルークが首を傾げる。

「ガイもよくやってるじゃねぇか」

思い当たることがあるのか、言おうとしていた言葉を飲み込んだガイは「あれは、その・・・」と別の言葉を探し喘いだ結果、口を噤む。

「おやおや、それでは貴方方も犯罪者ってことになりますねぇ。タルタロスはマルクト船籍です。まぁ家ではありませんが不法侵入が成立するのではありませんか?」

「あの艦にイオン様が乗っていなければそうなんだろうな」

「どういう意味でしょう?」

「ダアトでは導師は行方不明ということなってんだよ。書置き一つ残さずに姿が見えないとなりゃあ、誘拐されたと思うのも当然ってな。行方不明になった導師がマルクト軍と一緒にいるという情報を得ると同時に、導師探索の命は奪還に変更。導師さえ無事であれば犯人の生死は問わぬ、ってな。まぁ俺はチーグルの森でお会いしていましたから、イオン様がマルクト軍に不当に拘束されていたとは思わねぇけどな、事情を知らない人間から見ればてめぇらは誘拐犯。アジトに乗り込んで皆殺しにすることのどこに躊躇う理由がある?」

「導師は快く協力を申し出てくれたのですが、それでも誘拐なんでしょうかねぇ」

今までの男の話をどういうふうに解釈したのか、いけしゃあしゃあとよく言うものである。

「んなこたぁあ、ダアトじゃあ誰も知らねぇんだよ。てめぇもいい加減自分とこの皇帝を基準に考えるのはやめたらどうだ? どう考えたって、てめぇんとこの皇帝は規格外じゃねぇか」

「どういうことでしょう」

「普通偉ぇヤツぁ護衛も付けずにフラフラしねぇし、一日一度は執務室を抜け出すのが当り前なんてことはねぇんだよ。だいたい姿が見えなくても心配もしない。そのうち帰ってくるだろうと探しもしない。マルクトじゃぁそれが日常になってるからってダアトもそうだと思うなよ」

マルクト皇帝の実を知らない者たちは「どんな皇帝だよ」とツッコミを入れたい気分であったが、残念ながらつっこめる雰囲気ではない。

「僕のミスです」とイオンが項垂れる。

「事後承諾でも一言あれば状況は変わったと思います。少なくともこちらの彼から聞いてはいたでしょう。その時点で鳩でも飛ばせば間に合ったかもしれません。誤解があると知っていたなら解いておくべきでした。今更言ってもしかたがないことですが。それからタルタロス襲撃の件ですが、マルクト皇帝には報告してあります。マルクトとの関係がこじれることはないでしょうからご安心ください」

「陛下の許可とは、どういうことです」

ジェイドが珍しく声を荒げる。自分の知らない国政について敏感に反応するところは相変わらずのようだ。

「エンゲーブでイオン様がマルクト兵といることを確認した時点でてめぇの国に照会したんだよ。マルクト皇帝もまさか導師を非公式に連れ出すとは思ってなかったんだろうな。随分困惑していたよ。このままではキムラスカとの和平成立の前にローレライ教団との紛争ってことになりかねねぇからな。こちらに全面的に協力してくれることになったつうわけだ。ちなみにてめぇに無断でことを進めたのは『あいつは自分に絶対の自信があるからな。言ったところで聞きはしないだろう。放っておけ』つう皇帝の言葉あってのことだ。悪く思うなよ。まぁそんなわけで艦長以下には皇帝勅命でこちらに従っていただくことになったっつうわけだ。ちなみに全員無事だぜ」

「ではあの非常口も貴方が・・・。いえ、あれは一朝一夕にできるようなものではないはず」

あの時のことがトラウマにでもなっているのか、ジェイドの顔から笑みが消える。

それに対して男は何でもないことのように言う。

「あぁ、あれか? タルタロスと同型の艦にはすべて標準装備されている仕掛けだそうだ。つっても非常口だけだけどな。合言葉の設定とあの伝言は皇帝の依頼で俺たちが設置した。『迷惑かけられた俺へのせめてもの褒美だ』と言ってたな。録音してきっちり届ける約束になってんだよ。タルタロスの代金として安いと思うか高いと思うかはてめぇが決めたらどうだ?」

果たしてジェイドはどちらを選ぶのだろうか。「安い」を選べば自ら自分の値段を下げるようなもの、かといって「高い」を選べばタルタロスの所有権を手放すことになる。もっともタルタロスは既に譲渡済みなようであるから、適価であるかどうかの選択はジェイドのプライドの問題でしかない。だから沈黙もまた選べる答えであったはずだが、ジェイドは二択に答えを出すことを選んだようだった。

第三の答えの存在に気付いているのかいないのかはわからなかったが、しばらく逡巡した後「まぁ」と眼鏡を押し上げる。

ジェイドが眼鏡を押し上げる仕草をする時は表情を見られたくない時だということに、ルークが気付くのはもう少し彼との付き合いが深まってからのことなので、この時はその行為に意味があるとは気付かなかった。

「適正価格といったところでしょうか」

結局タルタロスよりプライドを取ったジェイドに、男は腹を抱えて笑う。

しかし逆を選んだところで男の反応は同じだったのではないかと思うのは、果たしてルークの考えすぎだろうか?

笑い転げる男と無表情でそれを見ているジェイド。男の笑い声だけが、夜の闇に木霊する。

誰も何も言えなかった。何を言ったらいいかわからないというのが本音だろう。

気まずい空気を打ち破ったのは意外ではあるが、ルークには聞き覚えのある音だった。

パコーンといつかと同じ音が響く。

気配はなかったはずだ。ルークやイオンといった戦闘に不慣れな人間だけではなく、他の三人も気付いてはいなかった。魔物ということを疑いたくなる程に野性動物からは程遠いチーグルの仔はもちろん、もしかしたら叩かれた本人さえも気付いていなかったかもしれない。

その音を聞いて初めてそこに存在していることに気付く。

銀髪の男を地面に鎮めた武器は黒髪の男が持つハリセンのようだった。前回と同様の登場シーンを演じた男。前回との相違点は左手にバスケットを掲げていることぐらいだろうか。場所も状況も不似合いであるが、男には気にする素振りはない。

「遊びが過ぎるぞ」

「わぁ、っていつから聞いてた? つうか、なんでいる?」

「女史の先見の明ってやつだな。目付け役だとでも思えばいい」

「俺ってそんなに信用ないか?」

「信用はしている。しかしおまえがどういう人間であるかも知っている。ただそれだけのことだ」

いじけて地面に『の』の字を書き始めた男を足蹴にする。

「おしゃべりは終わりだ」

「そうですか? 私はもう少し話していたいのですけどね」

復活したジェイドの声は二人には届いていないようだった。

「お前の仕事だろ。行ってこい」

どこから集まってきたのか、魔物の気配。それもひとつふたつではない。

ルークやイオンが気付けないのは仕方がないこととはいえ、会話に夢中で接近を許してしまったことに護衛役の三人はハッとしたようにあたりを見回す。その時には既に銀髪の男は剣を引き抜いていた。

「って今回も静観かよ」

「わたしは非戦闘要員だといったはずだ」

「へいへい。わかりましたよ。報酬は?」

黒髪がバスケットを掲げてみせる。

「アップルパイだ」

「上等じゃねぇか。食いながら俺様の華麗な剣技でも見ているんだな」

「あまりのんびりしているとなくなるぞ」

「わぁってるって。この辺の魔物だったら瞬殺なんで心配はいらねぇぜ」

颯爽と掛けていく背中を見送ると、その場に残った男はルークたちの方へ向き直る。

「お茶を入れる。薬缶はあるのか? なければ鍋でもいい」

背後で行われている戦闘に対する心配は欠片もないらしい。

自分の命を守る代償がアップルパイかと思うと文句の一つも言いたくなるルークであったが、ご相伴身あずかったアップルパイは屋敷で食べるものに勝るとも劣らないほどに美味しくて、うっかりそれぐらいの価値はあるかもしれないと思ってしまったことは内緒である。

「何でミルクティなんだ?」

その答えが返ってくることはなかったが、ちょっと甘すぎるミルクティはこんな場合であるにも関わらずルークの心を落ち着かせる効果があったようだ。

「なぁ、その・・・」

言いづらそうに口籠もるルークに、男はカップを両手で持つようにして口から離すと、正面からその翡翠を見据える。

向けられる瞳の色は闇。何もかも吸い込みそうな漆黒は周囲の闇よりも深い。すべてを呑み込んでしまうのではないかと思えるような闇の前に、ルークの葛藤さえも例外ではなかったようだ。

「守られるのって、辛くねぇか?」

自分でも驚くほど素直に口を吐いた言葉。

それがルークの本音。守られるのは辛い、戦うのも辛い。生きることは何かを犠牲にすることだと、そんなこと知らなかった。誰も教えてくれなかった。知らないままでいたら幸せだったろうか? それはとても楽な生き方だとは思うけれど、それではいけないような気がする。それに知ってしまった今、知らなかった頃に戻ることはできない。

男の口許に笑みが浮かぶ。ジェイドの人を見下したものとも、ティアの冷笑とも違う。もちろんガイの困ったような苦笑とも違った微笑み。イオンのそれに似ているがそこに儚さはない。

「私も似たようなことに悩んだ時期があった。何かを犠牲にしても存在する価値はあるのか? それは未だ答えの出ない命題であるが、答えを得るためにも私はまだ死ぬわけにはいかない」

ルークはきょとんとした顔で男を見つめる。

それは軍人でも自分と同じようなことに悩むことがあるのだという驚きからくる表情だったのだが、男は違う意味にとったようだ。

「これでは君の質問の答えにはなっていないな」とひとりごちる。

「それが私に求められていることだ。分不相応の矜持は身を滅ぼす。我が身だけならそれでもいいだろう。しかしあいつを道連れにするとわかっていては我儘は言えない」

「求められること?」

「あいつは肉体労働、私は頭脳労働。それが私たちの間にある役割分担だ。人にはそれぞれ役目がある。その役目が自分で決めたものであるか、他人から求められたものであるかの違いがあるとしても、それが人間が生きるということだ。導師に戦闘を強要しないのは導師であることを求められているから。彼女が君に戦闘を強要したのは剣士であることを求めたからだろうな。そして彼女が剣士を求める理由は前衛がいなければ自分が戦えないということを理解しているからだろう。自分の弱さを認めることは戦場で生き残るためには必要なことだ。しかし事実を隠して自分の都合を押し付けるというのはやり方が穢い。死霊使い(ネクロマンサー)も本質は譜術士だったな。三人の時は前衛を務められるスキルを持っているのが君だけだったから言わなかったのだろう。今は君の使用人という前衛を務めることができる人間がいる。それにあいつもいる。下手に戦わせるより守られていてもらった方が安全だと判断したのだろう。その判断が間違っているとは思わないが、君自身を無視して決めていいことではない。自分のことしか考えない人間の言葉に従う必要はないだろう。守られるのがいやなら戦ったらいい。それを決めるのは君自身だ。だが今君がなすべきことは無事に家に帰ることだということを忘れてはいけない。そのために何が最善であるか考えてみるのだな。矜持にかまけて死ぬなど馬鹿のすることだ」

「俺に求められていること・・・。伯父上に取り次ぐこと、か?」

タルタロスの船室で約束したこと。それが自分の生きる理由だろうか? 約束は大事だが少し違うような気がした。

「それを望んでいるのは死霊使いと導師だったな。君が無事家に帰ることを望んでいる者はそれだけか?」

無事に帰ってくることを望んでいる人のためにも帰らなければならない、と男の言っていることは正しい。

「それからな、守られている人間が綺麗だなどというのは幻想だ。あいつと私の立っている場所が同じである以上、この身に降りかかるものもまた同一。私は実際に濡れてみないと血の色がわからないというほど愚かではないつもりだ」

「んな愚か者誰が守るかよ。それからな、こいつが戦えねぇって事はないぜ。得手不得手の問題でね。ミルクティならこいつが淹れたヤツの方が美味いからな」

いつのまにか戻ってきた男は、黒髪の男からマグカップを奪い取ると美味そうに飲み干した。

返り血一つ浴びてはいないが、その身にこびりついた血臭がミルクティの香りと混じって辺りに漂う。それに眉を潜めれば「覚えておけ」と言われた。

「これはおまえの生の代価だ。おまえには奪った命の分まで生きる義務がある」

生きることは義務か権利か。

多分その両方なのだろう。そしてそれはルークが生きている限りルークのものであるが、命を奪われた瞬間に奪ったモノのものとなる。人間とか魔物とか、貴族の息子とか軍人とか関係なく、この地上に生きるすべてのモノに平等にある真理。

自分は本当に何も知らなかったのだと、ルークは改めて実感する。

今夜は考えなければならないことがありすぎて、眠る時間はないかもしれない。まぁこんな状況で眠れるとは思えなかったから調度よかったのかもしれないが。

「さ〜てと。俺は先に眠らせてもらうぞ。明日は三人守らにゃならねぇからな」

「荷が重いか?」

どうしてもというなら手伝ってやる、と銀髪の態度はどこまでも尊大だ。

「あぁ別にいいよ。おとなしく守られとけ。大物に出くわした時ゃあ頼るからさ」

地面を軽くならすと、無造作に横になる。

「こんなところで寝るのか」とルークが問えば、「おまえも寝ておけ」と地面に引き倒された。

固くてゴツゴツした地面はお世辞にも寝心地がいいとは言えない。こんな所で眠れるものか、とルークは思う。

「あんたは寝ないのか?」

「野営では見張りが必要だ。昼間の戦闘はこいつの仕事だからな。夜ぐらい私が務めよう。君にはまだそのどちらも無理なのだから、今は経験者の言に従うべきだ。眠くなくても寝ろ。明日が辛いぞ。あせる必要はない。できること、やらなければいけないこと、やりたいこと、そのすべてを最初からわかっているモノなどいないさ。一つずつみつけていけばいい。そして今君がやらなければならないことは寝ることだ」

「眠れねぇなら星でも数えとけ。遮るものも何もないこんな星空は滅多に見られるもんじゃねぇ」

頭上には満天の星空。

眠れないと思っていたが、身体は睡眠を必要としていたようである。気がついたら朝だった。ルークは言われるままに星を数えてのだが、いくつまで数えたかもよく覚えていない。しかし数えた星の数はそう多くはなかったはずだ。



自分が食べ損なったアップルパイがルークの腹に収まったと男が知るのは翌朝のことである。

「只働きなんてあんまりだ」

嘆く男に同情する者はない。

ただルークだけが「ごちそうさん」と男に声を掛けて、それで終わりだった。

 

 

 


あとがき(長くなりました。覚悟して読んでください。そしてやはり厳しめ注意報発令中)

 

ガイすまない。君の見せ場のはずが一行にも満たなかった。
つうか不幸属性なのはデフォルトだと信じている管理人です。益々すまない。

イチゴジャムに引き続きアップルパイも食べ損ねたハルが憐れ。

おしゃべりな男が喋りすぎた結果、自己紹介もできず、予定ではカイツールに辿りつくはずだったのに、セントビナーにも辿りつけず、次はきっとフーブラス川(あれ?)

 

タイトルの初出はTOSかな?

テイルズのどれかっていう曖昧な記憶しかなく、確認するだけの時間もなく、まぁいいかと断行(苦笑)

そろそろタイトル付けが苦しくなってきました()

ちなみにもう一つのタイトル候補は「タルタロスの値段が高いのか安いのか、それは君のみぞ知る」です()

 

自分で創った捏造ですが、色々辻褄あわせが大変ですorz

 

ハルがティアがファブレ家襲撃犯だと知っていたのは赤毛二人から聞かされていたからですが、t対外的にはガイ合流後の会話を盗み聞きしていたからです。あそこでそういう会話があったことにしてください。

 

しかしゲーム内では神託の盾が思いっきり悪役扱いですが、タルタロス襲撃は客観的に見ると神託の盾に非はないと思うのですが・・・。

「導師が行方不明=誘拐」って図式は短絡的ではないはずです。誘拐された導師を取り戻すために誘拐犯を皆殺しにしたとしても無罪、悪くて過剰防衛ですよね。

導師一行は「導師が行方不明ってことなっている」ことはルークにより知らされていたわけだし、何で襲ってくるのだろうと驚くところではありません。

イオンはリグレットに捕まった時にマルクトの誘拐ではなく自分の意志だと伝えたかもしれませんが、それじゃあ遅すぎます。もちろん伝えたにもかかわらずリグレットの態度が変わらなかったことで、モースによる和平成立への妨害と判断したというのであれば、合流後神託の盾は敵という判断はありですが。

ティアはアニスがついているから誘拐ではないと判断していましたが、守護役が一人しかいないことをおかしいと思って欲しかった。それとも普段から一人しかつけずに行動していたのか?→イオン。教団内だけならそれもありだろうけど、国外ではありえないと思うのですが・・・。

ティアもルークほどではないとしても一般常識が欠如しているっぽいので、疑わなかったのかもしれません。神託の盾とは名ばかりで、士官学校にも通わず、ダアトに来てからも単独任務ばかり。つうかヴァンの妹ってことで危ない仕事とか回ってこなさそうだし。色々階級に見合わない言動とかしていても謡将の妹ってことで許されたのだろうな、と。つうか神託の盾主席に対して一兵卒でありながら対等な態度(妹としてなら普通)とってそうだし。妹だからで許していたヴァンにも問題はあるだろうけど、おかげで王族とタメ口聞く人間ができあがったのではないでしょうか? ユリアシティという閉鎖空間での市長の孫っていうのは、王様の娘と似たような立場といえないことはない。ユリアシティの他の住民から普通の扱いを受けて育ったティアが、市長は敬意を払うものだがその家族は敬意の対象にはならないと思っていたとすれば、王様の娘(ナタリア)や甥(ルーク)なんて一般市民扱いでしょう。狭い世界で育ってそこでの常識を外に持ち出してもヴァンの妹ということで放置されていた結果、ああいう軍人ができあがった。

ちなみにハルの言う教団内でのティアの噂とは、ヴァンの妹として一般兵とは思えない立ち居振る舞いをしているという感じの噂です。虎の威を借っていることに気付いていない狐さんです。

実際どんな噂だったかはわかりませんが、約二万四千分の一の一般兵の名前を導師が覚えるほどの噂ですよ。まぁ「ヴァンの妹」程度だったかもしれませんが、今回は悪い噂ほどよく伝わるってことで上記のようなことに。

 

ハルのルークに対する態度も不敬ですが、丁寧な口調のハルって誰だかわからなくなるので、ハルは基本的にイオン以外には敬意を払わない人にしてしまいました。なので、ジェイドやティアの態度についてもスルー。一応ハルは一般常識を持っている設定なので公式な場所で公式な態度は取れますが、ここは非公式な場所みたいだしまぁいいか、ってな感じで。

ロイスは誰に対しても平等です。ですがそれが公式な場所では非常識だという自覚はあるので、礼儀作法が必要な場には極力出ません。やむを得ず出ることになった場合は喋りません。

 

あとがきでここまでフォローしなきゃならないものなんぞ書くなと思いつつ、本文でフォローできない文才と構成力のなさが哀しい()

 



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